矯正担当医の紹介
矯正担当医 筒井万里子の紹介
経歴
- 1998年3月大阪府立北野高校 卒業
- 2005年3月岡山大学歯学部 卒業
- 2005年4月大阪大学大学院 歯科保存科 入学
- 2007年10月日本歯科保存学会学術大会デンツプライ賞受賞
- 2009年3月大阪大学大学院 卒業歯学博士号取得
大阪大学 論文100選受賞 - 2009年4月IADR 国際歯科研究学会学術発表
- 2010年7月二ューヨーク大学 矯正歯科 入学
米国インピザライン認定ドクター 取得
Wilcodonticsコース修了
Alexander Tequnique コース修了
Speed System コース修了 - 2011年7月ニューヨーク大学矯正歯科 アドバンスプログラム 卒業
- 2012年7月日本インビザライン認定ドクター 取得
所属学会
- 日本歯科保存学会
- アメリカ矯正歯科学会員
- 近畿東海矯正歯科学会
- 日本非技歯研究会
幼少期
どんな時も常に優しく仕事一筋な父と、教育としつけに熱心でユーモアたっぷりの母のもと、やりたいことは何でもチャレンジさせてもらえる環境で育ちました。ピアノ・書道・クラシックバレエ・くもん・ジャズダンス・茶道・スイミング・英語教室など毎日習い事三昧でしたが、どれも楽しく長く続けられるようにと、行動の早い母がよい先生を探しだし、習い事の送り迎えをしてくれていました。特にピアノは3歳から18歳までずっと習っていたので、今でも時々、ピアノの音色を楽しんでいます。
学生時代
転勤族で小学校は4回転校しましたが、中学校への入学を機に大阪北摂に定住し、箕面にある聖母被昇天学院中学校に入学しました。毎日お祈りと聖歌の時間があり、ゆとりのある中高一貫女子高を満喫し、書道展覧会への出展やスピーチコンテスト、合唱コンクールの伴奏などに精を出していました。学業は、入学から卒業まで塾通いと教科書の丸暗記で100点満点を良くとり、10教科オール10と非の打ちどころのない成績でした。得意だった算数(後に算数は苦手科目に)をもっと勉強したいという思いと、3歳年上の兄が通う北野高校の運動会を見に行ったときに学校の活気に圧倒され、私もこの学校に通いたいと思い、突然高校受験をすることに決めました。周りの友達は受験しない中高一貫校の中で、自分の行きたいと思う北野高校の受験勉強に励んだ結果、無事に合格し通えることになりました。このころから、やりたい!いきたい!と思うことにはあまり深く考えずに動きだすところがあったのだと思います。
北野高校への入学後はハンドボール部に入り毎日泥まみれ汗まみれで、まさに「青春」を謳歌し、かけがえのない友達に出会えた時期でした。学校生活を楽しみすぎて、気づくと成績がガタ落ちで、親と喧嘩になることもありました(いわゆる思春期です)が、そんなところも含めて楽しい楽しい高校生活を送っていました。二年生になり進路を決める際、理系で生物を選択し、大学へ行った後は何になりたいかを真剣に考えた結果、手先が器用で細かい作業が好きな自分の性格と、白衣を着た女医さんってかっこいいなぁというイメージが沸いたので、歯医者になろうと決めました。歯医者さんになるために歯学部を探し、岡山大学歯学部に進学することができました。
歯学部・大学院時代
大学に入学し、一人暮らしを始めて料理をしたり、二十歳になって飲みに行ったり、バスケ部に入ったりで、自由奔放な時間を過ごし、気分はウキウキしていましたが、歯学部での勉強に対してはすごく真面目に取組んでいたと思います。いずれ歯医者になるなら、普通の歯医者でなく、”優秀な”歯医者になりたいという思いがあったからです。歯学部6年間、小さいテストも合わせるとかなりの数のテストがあるのですが、なんとなくテストに合格するのではなく、「優」をとって良い成績で卒業したい、ずっと最新の知識を勉強し、研究もしていきたいと本気で思っているような、学生にしては真面目すぎる学生でした。
岡山大学歯学部では、当時はじめてチュートリアルという授業科目が始まっていました。一般的な座学や実習ではなく、あるテーマに対して問題を見つけ出し、その問題を解決するために色々な方法で解決策をさぐり、それをチームメンバーで話し合い、まとめて発表をするという授業でした。教えてくださる先生たちも手探りで、始めはこの授業の目的がよくわかりませんでしたが、6年間受けたこの科目を通して、学んだことは大きかったと今は実感しています。
卒業すると同時に地元の大阪にもどり、憧れの歯医者人生を、大阪大学の大学院生として、研究にも診療にも力を入れている歯科保存科に入局してスタートさせることに決めました。保存科とは虫歯治療や、虫歯が進行した歯の根っこの治療を専門とする診療科となります。研究も盛んに行われていましたが、昔から大きく変わりがなかった虫歯治療や根管治療の新しい治療法を見つけだすぞ!、スーパーデンティスト(診療も研究も教育も一流の歯医者)を目指すぞ!!といよいよ始まる歯医者生活に意気揚々と取組んでいたのですが、、、すべてがスムーズにうまく走り出しませんでした。意気込みが強すぎたのか、理想と現実のギャップが大きかったのももちろん、自分の技術力も人間力も何もなかったので、実際の簡単な治療もなかなかできない、研究もやっていく意味すらみつけられない、なんか歯医者になったのに全く楽しくない、、、周りも楽しそうじゃない、夢だった歯医者の現実は全然カッコいい仕事と思えない。。。そんな、絶望に近い思いで卒後すぐの歯医者人生を歩みだしていました。
そのなかで、箕面で開業され、いつも元気に診療をされている大学の先輩のよしだ歯科に見学に行き、子どもを中心とした地域医療にたずさわらせていただきました。新米の若い女医が患者さんやスタッフに舐められないよう、毎週朝一番に出勤して練習するのに4年間院長にも付き合っていただきました。大学院生で収入がほとんどなかったので、大学からの枠で参加できるセミナーなどにはできるだけ参加して、知識・技術を習得していきました。大学の研究も思い描いていたような新しい治療法などすぐできるわけもなく、地道な研究ばかりでしたが、毎日毎日細胞を育て続けて、虫歯ができたときに使う材料と、材料の細胞に対する影響などを調べていました。そんな研究でいいのかなと葛藤が合って、やめようかなと何度も思いました。時間を無駄にしているのではないかという思いがすごくあったのですが、多くの先生たちが今まで積み重ねてきた研究、それをさらに発展させていき、色々な文献を読み込んで知識を深めることで、小さなものでも積み重ねて結果をだし、そしてそれをまとめ上げ、最終的には成果を出すことができました。周りからみても、ちゃんと研究が終わるのか等、すごく心配されているような大学院生だったと思います。論文は、卒業して、結婚して(結婚相手がアメリカにいたので、それについていくと決めて)アメリカにいってからやっと書き上がりました。書き上げた論文が最終的には『バイオマテリアル』という世界的に権威のある論文誌に掲載されることになりました。歯科分野の論文がこの論文誌に掲載されること、まして医療界全体で有力なこの雑誌に掲載されることはものすごい名誉のあることです。さらに、このことが評価され、その年の大阪大学全体の論文百選にも選出されました。
研究は99%が地道な作業で私にとっては結構辛いものでしたが、1%の結果が認められたことで、そのときは天にも昇る心地でした。嬉しかったです。それまでは365日中360日ほど大学にいるという偏った生活だったせいもあってか、論文を書き上げたと同時に燃え尽き症候群になり、渡米した先のニューヨークで燃え尽きていました。
結婚相手の方が先に留学していたので、その付添として当分は主婦として生活をするつもりでいました。土足だったので家中の床を磨いたり、掃除して、毎日ガイドブックをもってニューヨーク、マンハッタンなどを練り歩いていました。たくさんスーパーにもいってアメリカのスーパーの楽しさを味わっていました。本屋さんにもよくいきました。ただ、3ヶ月程たったときに、その生活にすでに飽きていました(笑)。当時、すごく流行っていた「SEX AND THE CITY」のシリーズもすべて見終わって、時間を持て余すようになっていました。そこから旦那の職場、ニューヨーク大学の人たちとパーティーなどでたくさん出会う機会があったので、世界各国からきた歯科医の方たちがニューヨーク大学で新しいことを学んで生き生きしている姿を見て、私もこの大学で学びたいと思うようになりました。
ニューヨーク大学時代
そんな折、ニューヨーク大学歯学部に直接伺う機会がありました。その中で、色々な先生やディレクターの方が話しかけてくださり、もともとは‘’ドクター筒井の奥さん‘’だったが、私もデンティストで歯学博士ということを言うと、もったいないと言われました。うちで勉強すればいいよと言われたので、そこから入学に向けて準備をこっそり始めることにしました。ニューヨーク大学歯学部はすごく大規模なので、一言に勉強するといっても色々な選択肢がありました。友達も色々な科に在籍しており、どこで勉強しようかと考えました。日本では保存科に所属していたので、「いかに歯を保存するか」をテーマに考えていました。保存するためには、矯正により歯を動かすことで保存しやすくなるケースがあるのですが、当時の私には矯正の技術がありませんでした。そのため、それまであまり専門的に勉強したことのなかった矯正歯科に興味を持ち、注目してみているとアメリカは日本よりもかなり進んでいるということが分かって、その矯正科で勉強してみたいと本格的に思うようになりました。
ニューヨーク大学の矯正科は、アメリカでも人気のある専攻科だったため入学は難関と言われていました。そこで、根回しのようにニューヨーク大学のディレクターの先生とパーティーで出会うたびに入学したいアピールをしたり、診療室を覗きに行ったりもしていました(笑)。そういった下準備もあって、次の7月から念願のニューヨーク大学で勉強できるようになりました。矯正歯科に入ると、アメリカで歯医者になった人たちと、卒業してこれから矯正を勉強していく人たちの2名、私のように海外から勉強しに来ている人が2名。合計4名でひとチームになり、診療していくということになりました。その年の矯正科では日本人は私一人でした。その学年でも一番厳しいと言われるアメリカ人の女医さん二人とチームを組むことになり、開始早々厳しすぎる環境に一瞬怯んでいました。
矯正科は本当に多くの矯正治療希望の患者様で毎日溢れかえっていました。特に火曜日はニューヨーク州のメディケイドの制度を使って(日本で言う保険治療のシステム)、経済的負担が少なく矯正治療が始められるシステムがあったので、その審査のために多くの人が列を作り、私達がその診察をしました。アメリカ人は本当にみんな矯正治療を受けたいと思っていて、親も子ども本人も必死になっていました。毎日朝8時から講義があり、9時から4時まではひたすら診療の毎日でした。日本ではありえないぐらい、本当にたくさんの患者さんを診ることができました。日本でもアメリカのように臨床ばかり診られる環境があればいいのになぁと何度も思っていました。日本の大学では最初から患者さんを直接自分で診て、治療計画をたて、教授と話して治療に当たるというのはなかなかできません。できたとしても、何年も先のことです。診療に集中できるのは本当にありがたいと思います。さらに、ファカルティと呼ばれる一流の先生たちが全米から集まってきていて、彼らは自分の個人のクリニックも開院しながら大学に教えに来ているのですが、実際に臨床の最前線で活躍されている先生方と、ディスカッションしながら治療方針などを決めていける機会はすごく刺激的でした。教授の人たちとフランクに話せるのはなかなか日本にはないかなと思います。ニューヨーク大学では世界中から集まった超一流の教授陣から直接指導を受けることができ、シンプルで無駄のない治療方法や、専門性の高い連携治療を学ぶとともに、歯科医療のプロフェッショナルに対する社会の高い評価を実感しました。
ニューヨーク大学の基準で、軽度の患者さんはインビザラインで治療する日が週に1日ありました。当時のインビザラインはそこまでガタガタがひどい人は矯正できないというスタンスでした。アメリカでは、もともと矯正治療をしていたが、後戻りをしてしまったため再治療したいという方がかなりの数いたので、そういった方たちで週のうち丸一日が埋まるぐらいインビザラインの患者さんがいたのを覚えています。当時はスキャナーもなかったので、シリコンで型取りを一生懸命採っていました。矯正治療は通常2年位治療期間がかかる方が多いので、長期間経過を診るということが難しいのですが、たくさん患者さんを診ることによって色々なステージの治療の段階を診ることができたので、効率的に矯正治療を全体的に学ぶことができました。アメリカの文化、歯に対する意識の高さや診療室の楽しい感じに触れることができ、歯医者さん=嫌なところという小さい頃からの思い込みが全然ない文化がすごく新鮮でした。結構自由で、スケボーに乗って受付に来ている患者さんがいたことのを今も鮮明に覚えています。もちろん朝から晩まですべて英語でコミュニケーションをとる必要があります。グループ内で最初は厳しいと言われていた女医さんも実はすごくキッチリされている方でした(アメリカ人はルーズなひとが多いですが)。グループをしっかりオーガナイズしてくれていたり、写真の整理もされていたので、症例検討もきっちり行うことができました。また、患者さんの親御さんとコミュニケーション取る場面がよくありましたが、最初は難しくて、アメリカ人の女医さんによく助けてもらっていました。説明をキッチリしたり、質問にしっかり答えるのは難しかったです。でも、分業化されていたので、診療を学ぶという環境に集中できてよかったです。アメリカでの濃い矯正治療の研修を終え、症例発表も無事終え、晴れて卒業することができました。
卒業する頃には矯正治療全体についての知識がすごくつきました。歯科医的に先端と言われていたインビザライン・ミニスクリュウを使った治療・外科的な処置を含んだ矯正治療・加速矯正治療の公演で話を聞く機会がありました。専門家同士が連携されていたので、連携治療を学ぶこともできました。
・帰国後に無事出産をして、5ヶ月後ぐらい経った頃、せっかく学んだことを活かしたいと思い、週一から徐々に矯正治療をメインとした担当医として仕事復帰をしました。母が専業主婦だったことから、働くのは子どもが大きくなってからと以前は考えていましたが、すぐにでも働きたい・役立てたい!と思い、家事・育児・仕事をこなし目まぐるしく生活していました。
最初は、矯正治療をメインに働くことと生活のバランスに悩んだこともありましたが、今は全力で仕事を楽しんでいます。
アメリカ矯正歯科学会という一番大きな学会では、今ではマウスピース矯正の分野が多くを占めていますが、日本ではほんの数%です。これから日本も矯正治療の内容が大きく変わっていくと思います。その中で、常に先進的な質の良い医療を届けられるように研鑽をしていきます。
今のパートナーと出会い、一年半ほどお付き合いをした頃、突然、留学しようと思うと言われ、「留学ってどこへ?いつから?いつまで?」と思わず質問攻めになりました。3・4ヶ月後には行こうと思う。期間は4年、といわれました。正直、「え?」となりました。4年も待てば婚期を逃すと思い、留学へ行く前に結婚をするかしないか決めてほしいと伝えました。彼が結婚したいといったので私は大学院を日本で終わらせ、彼は大きな志をもってニューヨークへ。新婚生活はマンハッタンの真ん中の庭があるマンションで始まりました。ニューヨークは刺激的で楽しかったです。
日本に帰ってきてから学んだ知識を生かして矯正治療をしていますが、日本人の歯並びの悪さが欧米人に比べて多かったので、歯を抜いたりワイヤーで矯正正治療をすることがほとんどでした。私はアメリカのインビザライン社の認定ドクターなので、日本での講習会へ参加した際に天王寺と芦屋で開業されている有本博英先生に出会い、「『インビザラインでは歯は治らない、マウスピース矯正で歯がちゃんと治らない』と言うのはドクターが勉強してないからでしょ。世界を見ればアライナーでも直せているひとは治している。」と言われ自分の勉強不足かと考え、その先生のもとで勤務をしながら多くを学ばせていただいています。
院長主催のシアトルスタディークラブで矯正治療専門の尾島賢治先生の公演を聞く機会がありました。世界でも権威ある先生の症例を見せて頂いたときには衝撃を受けました。インビザラインだけでキレイに治療しているのをみて、今後は更に深く学ぶ必要があると実感しました。(2016年のこと)そこからは難しい歯並び治療も徐々にマウスピース矯正を適応できる幅が広くなっていきました。インビザラインの商品も毎年進化しているのでそれを使いこなせるように、常に勉強しています。インビザライン自体は20年以上前の1999年にアメリカで矯正治療を対象に始まりました。もともと歯医者ではない2人の方が立ち上げた会社が今では世界的に使われている製品となりました。これからも進化し続けると思います。患者様がいかに矯正治療期間を快適に過ごしていただくかということも大切であり、提供するスタッフ、ドクターの教育にも力を入れています。
私は歯科保存科出身です。この虫歯治療・歯周病治療・根管治療を中心に歯を残すための治療を専門とするバックグラウンドをもつ珍しい矯正歯科医として、できるだけ歯を抜かない、自分の歯を残していく治療を目指しています。
そして、「本当に喜んでもらえる最良の矯正治療で、ひとりひとりが豊かな人生を送れるよう寄り添う」をモットーに患者様に接していきます。